- 日時:2023年3月30日(木)19:30~21:00
- 形式:ハイブリッド
<会場> 読書人隣り(東京都千代田区神田神保町1丁目3-5 冨山房ビル6階)
<オンライン> Zoomウェビナー - 言語:日本語
- 主催:亜紀書房 & MeDi
- 共催:東京大学Beyond AI研究推進機構B’AI Global Forum
2023年3月30日、「メディア表現とダイバーシティを抜本的に検討する会(MeDi)」のメンバーによる2冊目の書籍『いいね! ボタンを押す前に——ジェンダーから見るネット空間とメディア』(亜紀書房、2023年1月刊行。以下、『いいね!ボタン』)の刊行記念イベント第2弾がハイブリッド形式で開催された。今回のテーマは、「伝統的メディアがネットに呑み込まれないためには」である。3月1日に開催された第1弾「わたしたちの知らないインフルエンサー」で指摘されたテレビ・新聞とSNSの相互依存関係にさらに踏み込み、ネット世論を過剰に意識することで本来果たすべき役割の放棄が指摘されている伝統的メディアの現状について、メディア実務者と研究者、両方の視点から批判的な議論が交わされた。第2弾には、第1章「眞子さまはなぜここまでバッシングされたのか」を執筆したジャーナリストの浜田敬子氏、第2章「炎上する「萌えキャラ」/「美少女キャラ」を考える」を執筆した東京大学大学院情報学環准教授(2023年3月現在)の李美淑氏、第5章「スマホ時代の公共の危機──ジェンダーの視点から考える」を執筆した東京大学大学院情報学環教授の林香里氏と、モデレータとして第4章「なぜジェンダーでは間違いが起きやすいのか」を共同執筆したジャーナリストの白河桃子氏が登壇した。
ネットと言論
議論は、今回テーマ選定のきっかけとなった林氏執筆の2023年2月23日付け朝日新聞論壇時評「ネットと言論 現実世界へと滲みだす混沌」を皮切りとして始まった。60年に渡る論壇時評史上初の女性筆者であり、ちょうどイベント当日に2年間の執筆を終え最終回を迎えた林氏は、伝統的メディアの世界とネットの世界が完全に分裂している現状において一体「論壇」とは何かという疑問から当該記事を書いたという。林氏が指摘するように、新聞が公共の議論の場としての力を失っていくのに対し、近年、ひろゆき氏や落合陽一氏などの有名人がネットを中心に世論形成にますます大きな影響力を振るっている。また、そもそも情報の発信力という側面でも、今日の新聞・テレビはYahoo!などのポータルサイトやソーシャルメディアに劣ると言われており、一方で内容においてもネット炎上に便乗するような報道が増えていると批判されている。
なぜオーディエンスは伝統的メディアよりもネットインフルエンサーの発言に耳を傾けるようになったのか。言い換えると、なぜ伝統的メディアはジャーナリズムの担い手としての役割を十分に果たせなくなったのか。もちろん、デジタル時代における情報源の多様化などが要因としてあげられるが、それだけでは伝統的メディアに対するオーディエンスのそもそもの忌避感や不満が十分に説明できない。そこで本イベントでは、昨今の伝統的メディアそのものが抱える問題点を指摘することで、ネットとの健全な共存の道を模索するという方向で議論が展開された。
ジャッジを避ける伝統的メディア
議論全体を通して取り上げられた伝統的メディアの問題点は大きく次の3つにまとめられる。第一に、「ジャッジを回避する」問題である。報道機関には、単に世の中の出来事を羅列して伝えるのではなく、民主主義社会への貢献という大きな使命の下で健全な議論に必要な情報と論点を提供し、あらゆる形の権力を監視・批判する役割が求められる。しかし、近年の新聞・テレビは、「客観中立」を建前として、批判的な視点が必要な事案においてでさえ明確な立場を示さず、当局の発表だけをそのまま伝えたり機械的な両論併記でリスクを避けようとしたりする傾向があると登壇者たちは指摘する。特に浜田氏は、第2次安倍政権になって政権のメディア報道に対する姿勢が強固となったことがメディアの萎縮につながったのではないかと分析している。この見解は、現在問題になっている、放送法の「政治的公平」の解釈をめぐる第2次安倍政権内の行政文書(首相官邸側が政権に批判的な番組を取り締まる方向で放送法の解釈を変更するよう総務省に働きかけた状況が記されている)からも裏付けられる。
では、リスクを背負ってジャッジをするのは誰なのか。浜田氏によると、現在その役割はコメンテーターや専門家らに委ねられている。そうすると、炎上した時のネット世論の非難もコメンテーターら個人に向けられるという問題が生じる。本来ならその人たちを守らなければならないメディアが、「ファクトしか報じない」という態度で自分たちの役割を人任せにし、責任を転嫁しているのである。それに対し、インフルエンサーたちは刺激的な言葉で物事についてはっきり言い切るので、オーディエンスも、引いては伝統的メディアもますます彼らに頼るようになってしまうと白河氏は指摘する。
そもそも報じない問題
伝統的メディアをめぐる2つ目の論点は、ジャッジをしないだけでなくそもそも「報道しない」という問題である。李氏の問題提起によると、ある時はネット上の騒ぎに過剰に反応する新聞・テレビが、ネットで大きく話題になっているトピックを全く報じなかったり、とても小さな扱いをするに留まることがしばしばある。そして特にその傾向が顕著に表れるのが性暴力事件だという。李氏は、ジャーナリズムの監視すべき対象である権力濫用の一種として性暴力が世の中に溢れているにもかかわらず、なぜそれらをもっと追跡・告発し、改善に向けた社会的議論を触発しないのかと強く批判する。
特定のトピックを取り上げない理由としては、そのトピックが社会的にタブー視されている場合や、追及の対象とメディアが何らかの関係でつながっていて触れるにはメディア側の都合が悪い場合などが考えられる。最近、英BBCのドキュメンタリーによって浮き彫りになったジャニーズ事務所の性暴力問題に大手メディアが長い間沈黙してきたのはこの理由のためであろう。だが、それだけでなく、そもそも当該トピックをニュースとして取り上げるに値するものと認識すらしないケースも少なくない。登壇者は、その背景に、メディア業界における多様性の欠如、すなわち、組織の同質性/均質性という構造的な問題があると指摘する。『いいね!ボタン』で映画界の性暴力について書いた白河氏は、表現の現場にハラスメント問題が頻発する要因として「同質性のリスク」が深く関わっていると分析するが、メディアがこの問題を真正面から報道しないのもまた組織の同質性の高さに起因するところが多いという。つまり、映画界と変わらずテレビ業界もジェンダーバランスが悪くセクハラ体質が根強いため、性暴力を深刻な社会問題として認識しないということである。また、林氏も、メディア業界が日本人男性という均質的なグループに支配されている現状に言及し、同じ人たちの同じ目でしかニュースがつくられない限り、新しいニュースは決して出てこないと警鐘を鳴らす。
型にはめられた伝統的メディア
独自の判断や批判もせず、多様な問題意識を取り入れた新しいニュースも発信しない伝統的メディア。それが体質化されていると、必然的に3つ目の問題が浮かび上がる。すなわち、「ニュースが型にはめられている」問題である。そして、これこそが伝統的メディアとネットメディアの間に差がついてしまう主な要因である。
林氏は、伝統的メディアの報道がいかに画一化されているかを物語る一つの事例として、2022年7月に発生した安倍元首相殺害事件の時の報道をあげる。当時、大手新聞各紙の見出しは一言一句違わず同じであり、容疑者の母親が所属していた「旧統一教会」についても、当教会が記者会見をするまで全紙が揃ってその名を示さず「特定の宗教団体」としていた。新聞社側は「見出しというのはそういうものなんだ」と言っているそうだが、林氏の見解によれば、なぜそういうものになっているかを問わないところこそが問題で、やはり今の新聞・テレビは様々な表現方法があり得るにもかかわらずその可能性を追求せず、自分で自分の限界をつくってしまっている側面があるという。
質疑応答
このような登壇者たちの議論からは、オーディエンスがますますネットの方に流れるのも当然のように思われる。それでは、他の参加者は、今日の伝統的メディアについて、また新聞・テレビとネットの関係についてどのような意見を持っているだろうか。
議論に続く質疑応答の時間で、ある参加者は、ニュースメディアの中心がますますネットにシフトしている現状に対する登壇者らの懸念に対して、「今日、特に若者にとってはネットがあるから新聞や雑誌のコンテンツが届くのではないか」との意見を示した。それに対し林氏は、ネットが媒介する以上はネットというメディアの特性が必ず間に入るため、オーディエンス側では情報を受容するスタイルが紙で読む時とは全く異なるものになっていき、一方でメディア側ではPV(ペイジビュー)やCV(コンバージョン=ウェブサイトの成果指標の一つで、メディアサイトにおいては主に有料会員登録を指す)を得やすいコンテンツが優先的に選ばれ、「ついで見」に適合するニュースが主流になっていく中で良い報道の概念もジャーナリズムの定義も揺れてしまうと回答した。さらに浜田氏は、今の若い人はメディア企業の自社サイトでもなくほとんどYahoo!などのプラットフォームを利用していると指摘。そこではアルゴリズムの働きによってニュースが高度にパーソナライズ化されていて、まさにエコーチェンバーやアテンション・エコノミーの問題が深刻だと付け加えた。
ここで言及されたニュースサイトとアテンション・エコノミーの問題に関連しては、ちょうど参加者から「ネットニュースのコメント欄にも様々なコメントが寄せられ議論が行われているので、多くの人をその場に呼び寄せるという意味ではアテンション・エコノミーにも良い側面があるのではないか」という意見が届いていた。李氏は、確かに数というのは重要な側面もあるが、今のネット時代にはクオリティの部分が混沌としている中で数だけが突出して重点化されているとの見解を示す。Yahoo!ニュースのコメント欄などを見ても、基本的には多くの「いいね」が付けられたコメントが上位に上がっており、そこにはマイノリティの声は含まれていないので、やはり数を優先するアテンション・エコノミーの中の議論というものには限界があると述べた。
その他にも、オンライン参加者から「ヤフコメの中でマイノリティの心理的な安全性が守られていない状況がある」との指摘や「メディア報道で横行する不思議な中立主義について登壇者はどう思うか」といった質問が寄せられ、さらに議論が深まった。林氏は、ジャーナリズム研究ではすでに「中立」とは神話であることが長らく指摘されているのに、メディアは依然として形式ばかりの変な中立を守ろうとし、かえって報道を歪めていると批判した。
ネット時代にさらに求められる「信念」
機械的な中立主義を含めて、本日取り上げられた伝統的メディアの諸問題は、実は全てが地続きでつながっている。林氏は、その根底にあるものとして、メディアの事なかれ主義、そして信念の無さを指摘する。何が社会にとって本当に良いのか。それを実現するためのジャーナリズムの究極的な目標は何なのか。今のメディアはそれらについてのきちんとした信念を持っていないがゆえに、ジャッジもせず画一的なニュースばかり機械的に生み出すのである。浜田氏も、どういう価値観に立って報道するかという信念がないまま色々な人の意見を提示するのを中立性とは言えないとし、メディアはまず自身の価値観をしっかり確立する必要があると強調した。
新聞・テレビといった伝統的なジャーナリズムの担い手は、その社会的影響力や課せられた規範ゆえに、報道する上で様々な選択を迫られる。多数の意見を世論と捉えてそこに重点を置くべきか少数者の声をもっと拾うべきか、他局は報じていないこの問題を扱うかどうか、登場人物を実名にするか匿名にするか、ネットに流れている写真を使って良いかどうか、表現は極端だけど視聴率は取れそうな特定のインフルエンサーを起用するかどうか─。ネットの存在によってさらに難しくなったこれらの選択を前にして、各メディアが自身の信念を基準に据えないと、まさに型にはまったニュースしか出てこなくなる。誰に何を届けたいか、うまく届けるためにはどのように表現すれば良いか、ニュースを通じてどのような社会をつくりたいかを今一度真剣に考える姿勢が、ネット時代を生きる今の伝統的メディアに強く求められる。
報告者:金 佳榮(東京大学大学院情報学環 特任研究員)